駅の導線
海外生活から久々東京に戻ると、不思議に思うことが沢山ある。
中でも、改善出来る余地があるにも関わらずそのままにして、人々のストレスを生産しっぱなしにしているとしか思えないことがある。
駅の構内の導線。
電車から降りた人が改札へ向かう階段を上がる所と、これから電車に乗ろうとして階段を駆け下りてくる人がぶつかるのである。
なぜ、行く方向と、来る方向で導線を分けないのだろうか。
これが車道であれば、正面衝突事故状態である。
渋谷のスクランブル交差点なども、物理的に向かう方向が真逆の矢印がぶつかるように入り乱れ、ぶつからない方がむしろ不思議な状態にいつもストレスを感じる。
一般的には、東京は人が多すぎるという条件の下で、皆もう諦めてしまったのだろうか・・・
ただ、ぶつかりそうな状況なのに、歩く速度を落とさないのはなぜだろう。
ただでも狭いのに、無表情で目線も合わせず突っ込んでくる人は、どういう目的なのだろうか。
相手がよけるのが当然という感覚なのだろうか。
他人とのアイコンタクトなどのコミュニケーション、周囲を察知しながらの歩行は最低限必要だと思う。
もしくは、物理的に導線がぶつからないように、駅や施設や歩道の作り自体に配慮が施されること。
これだけでも、ストレス社会の具体的な改善である。
日本のスタバ
日本のスタバで、オーダー時になぜ名前を聞か(書か)ないのか。
それについて、日本人は名前を呼ばれると恥ずかしいから嫌だという意見もあるが、
「スターバックスラテ、トールサイズご注文のお客様ー。」
と言われても、他にも同じものを注文している人が普通にいそうだし、自分のものかどうかの確信にはならないと思うのである。
そして実際に取り間違えなどが起きると、改めて日本人の習性を理解できないものと感じてしまう。
スタバはインターナショナルの企業なのだから、良い文化は取り入れれば良いのに。
せっかくインターナショナルの企業が日本に参入しても、〇〇ジャパンとしてしまい、企業文化もステレオタイプ式に日本の国民性だと考えられているものに合わせるケースが多いと感じる。
そこに絶対的な必要性がある場合はそれで良いとしても、外から取り入れたほうが良さそうな文化は、どんどん拾っても良いのではないか。
そういう環境が当たり前になれば、人前で名前を呼ばれて恥ずかしいなどという日本人独特の感覚自体も過去のものとなる日がくるかもしれない。